ドラマ「半沢直樹」を見て、ミドルの純粋性が意思決定のクオリティを高める

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ミドルの青臭さは組織の生命線

ドラマ「半沢直樹」、大好きです。

弱者が強者に立ち向かっていく、この下剋上感。

そして、権力に屈することなく、自己保身に走ることなく、ただシンプルに目の前の目的のために、どれだけ踏み潰されても最後まで諦めない、半沢直樹の真っ直ぐで泥臭い生き方が好きです。

ただ、上層部から見たら、ある意味一番面倒臭いタイプの部下ですね。

「青臭いこといつまでも言うな」

そんな声が聞こえてきそうです。

でもこれ、ミドルマネジャー(以下ミドル)に最も必須の要素だと思います。

ポジションで言えば、半沢と同じ課長・次長・部長クラス、

特に課長は″組織のへそ″と呼ばれるミドルの代表格。

完全に組織に染まりきっていない、どこか青臭い部分が残っている。

それでいて、チームを率いて突破してく経験値とパワーがある。

組織全体でみたとき、課長の役割は、守りでなく、圧倒的に攻めです。

まだ自分の後ろには部長という最後の砦がある。

部の最終責任をとるのが部長の仕事です。

課長はまだ失敗ができるポジションなんです。

だからこそ、課長はリスクをとって攻めないといけない。

というか課長にリスクなんてそもそもない。

実際にリスクを受け止めているのは部長ですから。

攻めによる失敗は許される、それが課長です。

課長が守りに入った組織になんて未来はないです。

課長が攻めるから、組織は前に動く、

自己保身に走るなんて早すぎます。

半沢の芯の強さは、自身の評価より、一貫して顧客のためという大原則が貫かれているとこにあります。

仮に自分が飛ばされても、それ以上に守りたいものがあり、それを最後まで貫く行動力がある。

それが半沢直樹の強さ、だと思います。

生きている組織は必ず半沢のような芯のある、骨太のミドルがいます。

逆を言えば、いかにモノが言えるミドルを育てるかが、次世代のリーダーを育成していく上での経営者の役割でもあると思います。

怖いですからね、不正を徹底的に暴きにくる部下なんて 笑

味方にしたら最強ですが、絶対に敵に回したくない、そんなある種恐怖を感じる尖ったミドルを組織に残せるかどうかは、経営者の器の大きさにも影響します。

無駄に敵をつくるな、って話もありますよね。

でも、敵をつくらないことを目的としたらおかしくります。

先日、友人と話をしている中で、陽を立てたら必ず陰が立つ、陰を立てたら必ず陽が立つ、両者は常に引き合っている。

だから、何か主張したらそこに抵抗が生まれるのは自然の摂理であり普通のこと、という話がありました。

日本人はその人の意見と人格が混合するので、自分に反対意見を立てる人は自分の敵となってしまいがちですが、それは決して敵なのではなく、互いに意見を持つ人間同士として対等だからこそ立ち上がってくる現象なのだと思います。

全開一致の役員会議なんて危うすぎます。

異なる意見があるのが普通であり、

様々な角度から検証することで、意思決定の精度も高まる。

だから、もし半沢のようなミドルが東京中央銀行に存在しなかったから、

とっくに組織は腐敗しているかもしれません。

ときに正論すぎるミドルの青臭さは、組織が選択を誤らないための生命線となります。

「空気を読む」ことの功罪

一般的に、ポジションが高まれば高まるほど、何となく無言の圧力がかかります。

それは、大人になれ、という無言のメッセージ。

これ、解釈が非常に難しい言葉です。

聞き分けの良さも必要だ、というニュアンスが強いようにも思います。

日本には空気を読む、という独特の文化があります。

一を聞いて十を知る、察するということです。

これ、欧米人には真似できないすごいコミュケーション能力です。

欧米は違うことが当たり前、ローコンテクストの社会、だから言葉にしないと伝わらない形式知の世界。

日本はハイコンテクストの社会、以心伝心、何も言葉を交わさず相手を感じる暗黙知の世界。

空気を読む力は素晴らしい、でも空気を読むことと、その空気に従うことは全くの別物です。

でも、今それがごっちゃになっている。

いえ、昔からです。きっと。

脳科学者である中野信子氏は、著書「人はなぜ他人を許せないのか」の中で、

『日本は地政学的にも島口であり資源も少ない、そして地震や台風など自然災害のリスクが圧倒的に高い。

そのような環境下で最も有効なのは、集団による助け合いであり、協働して困難を乗り切る集団主義戦略が生存のための最適解であり、個人の意志よりも集団の目的を優先する人材の方が重宝される。

だから、集団の意思決定への忠誠度が極めて高い、集団の和を乱すこと極力回避することが、先祖代々のアイデンティティーとして埋め込まれている』

と言っています。

忖度そのものが決して悪いわけではない。

コロナによる緊急事態宣言が出たとき、日本の同質性の高さによって自粛ムードが高まり感染を抑えた。

その一方、そこからはみ出る人を責め、非難し、攻撃し、自粛警察という言葉まで生まれた。

物事にはいつも裏と表の両面がある。

それをわかった上で、最終的に自分はどう選択するかを常に問われている、今この瞬間も。

本当は、一つ一つが選択の連続。

集団優先の論理は、思考停止を招きやすいんです。思考省略になりやすい。

本来の目的を見失い、集団の意志から外れないことが目的にいつの間にかすり替わってしまうことがある。

その日本最大の失敗が、太平洋戦争だと言われています。

経営学者である野中郁次郎氏は、著書「失敗の本質」の中で、「空気」に左右される日本人的気質と組織のメンバーの「間柄」を重視し、関係性を優先した集団主義的な意思決定が、日本軍を無謀な戦争に突入させたと分析しています。

空気を読み、その空気に従うこともあれば、ときに空気に反する発言もある。

普通に仕事をしていたら、組織の意思決定に違和感を感じることなんて日常茶飯事です。

その違和感一つひとつを挙げ出したらきりがない。

すぐに解決できることとできないことがある。

でも、そこでミドルが直面する2つの選択肢があります。

一つは、組織はこんなものかと諦め、そのルールの中で生き抜く処世術を身につける。

もう一つは、全てはすぐにどうにもならないことを飲み込んだ上で、今自分ができる一手を諦めずに打ち続ける。

前者は、聞き分けのいい中間管理職として上層部からは重宝されるかもしれません。

後者は、物言う中間管理職として上層部からはときに煙たがられるかもしれません。

前者は、集団の意志に自分を適応させるという生き方であり、後者は、集団の意志を理解しながらも、その中の個として意志表示をする生き方です。

前者は、身の安全は確保されるかもしれませんが命が削られていくかもしれない。

後者は、場合によっては村八分にされる可能性があるが、活力が漲ってくるかもしれない。

そして、正解のないVUCA時代(Volatility=変動性、Uncertainty=不確実性、Complexity=複雑性、Ambiguity=曖昧性)に求められるミドルの力とは、後者の道です。

もはや答えが明確な成長戦略はどこにありません。

トップも明確なビジョンを打ち出せくなっています。

トップに明確な方向性を示してもらいたい、その中で役割を果たします、というミドルの受身的姿勢は、トップダウンが有効な正解ありの時代は通用しましたが、正解なき現代の社会のおいては不十分です。

ミドルがいかに組織全体を見渡し、今必要な一歩を自ら見出せるか。

今、ミドルに求められているのは「調整力」ではなく「突破力」です。

振り回されないための芯の強さ

ポジションが上がると利害関係者が増えます。

一般職のときは自分と目の前の顧客のことだけでよかったのが、そこに部下、上司、他部署、などなど関係者が増えていきます。

そうなると何が難しくなるかと言うと、みんなそれぞれ好き勝手なことを言う、それらをどうとりまとめるか、という問題にぶつかります。

好き勝手という言い方は適切ではないかもしれませんが、要は立場が違えば見ている景色も違う、目的も違う、だから自ずと判断も異なる、ということなのであり、全員が賛成する解など存在しない、ということです。

そうすると、何が起こりやすいかと言うと、

ブレるんです。

みんなの意見に振り回されてしまう。

これ、中間管理職であれば誰もが通る道であると思います。

だから、まず必要なことは、

みんなの意見を調整することなんてできない、みんなの意見を汲むことなんて不可能、

という現実を受け入れること。

みんな見ている景色が違うのですから。

中間管理職の真の役割とは決して調整役ではありません。

これだけやっていたら、自分がなくなってしまう。

中間管理職は板挟みって言われます。

上からの圧力、下からの突き上げに潰されそうになる。

では、挟まれても潰されないための術は何か、

それは、挟まれてもビクともしない芯の強さを持つしかない。

じゃあどうやって芯の強さを身につけるのか。

それは軸を持つことです。

軸とは目的です。

誰のために、何のために、何を成したいのか、という大原則。

ミドルは絶対にこれを忘れてはならない、

さばくことが目的になったら一気にその姿勢は

現場で働く部下に伝染します。

顧客のため、とかはちょっと抽象的です。

もっとそこに自分の色をつけ

目的の解像度をあげていく。

自分の軸を持つとは、例えると彫刻のようです。

掘って掘って少しづつ、自分という人間の輪郭を鮮明にしていく。

自分は一体どんな人間で何を大切にしたいのか、

何を守りたいのか、何を表現したいのか、

最初は自分のことなんて誰も分かんない。

でも、経験と共に徐々に軸が明確になっていく。

頼りになるのは自分の感覚、思考ではない。

頭でこねくり回して作った道は嘘が多く、

瞬発力はあっても持続力がない。

脳はいつも自分に嘘をつく。

それに反面教師も軸に見えて実のところは他人軸、

他人の生き方に支配された状態。

他人軸で生きるとただの頑固になってしまう。

必要なのは本物の自分軸。

だから、心を開き、直感的なモノを頼りに自分という彫刻を彫っていくしかない。

おそらくこれ、一生モノの作業です。

きっと死ぬまで終わらない 笑。

でも、そうやって自己の軸を明確にしていくことが

経営者だけでなく、今ミドルには求められている。

そして、明確にするだけでなく、

日々その軸に沿って行動していくことが大事です。

最初はホントになよなよ。

ちょとした誰かの一言で簡単に吹き飛ばされてしまう 笑

でもそれは仕方のないこと。

慣れてないから。

吹き飛ばされてはまた自分に戻り、

また吹き飛ばされては自分に戻る。

きっとその繰り返し。

軸なんて一朝一夕でできないです。

右利きの人がいきなり左利きになれないのと一緒。

日々の訓練の積み重ねでしかなし得ない。

今日の会議、言いたいことをちゃんと言ったか、

言いにくい相手に、言うべきことを言ったか。

周囲の声や期待を感じ、空気を読みながらも、

ひとつひとつの判断をちゃんと自己決定する。

みんが反対するから手を引っ込めるのではなく

自分が必要だと思うなら、迷わず手を突っ込んでみる。

そういった体験の積み重ねが段々と自分の軸となり、幹となる。

それがミドルの芯の強さだと思います。

論理的思考による意思決定の限界

ドラマでは、役員と半沢との会話の中で「銀行にとって何がベストか」「顧客にとって何がベストか」というセリフが幾度となく聞かれます。

役員の「銀行にとって何がベストか」というセリフは組織を守るという視点であり、半沢の「顧客にとって何がベストか」というセリフは銀行員としての仕事の本来目的を守る、という視点です。

半沢が正義を貫くことで、トップである頭取の首が危うくなる、もっと言えば銀行そのものが危うくなる、そうなれば従業員、ひいては回り回って顧客にも影響を及ぼすかもしれない。これが大和田の木をみて森をみず、もっと銀行全体を見なさい、全体にとって何がベストか、という指摘だと思います。

逆に半沢は、顧客にとってのベストを貫くことは、銀行の本来目的であり、そこを外した銀行に果たして銀行としての存在意義はあるのか、いくら森全体を気にしていても、目の前の木の劣化を放置することは、森全体を腐らせることに繋がるのでは、という主張であると思います。

どっちが正しいのでしょうか。

債権放棄を迫る大臣に反論した半沢に対して「君が(国に)謝らなかったのはある意味では正しい、そして謝った木本常務ももちろん正しい」と大和田が半沢に投げかけました。

つまり、どっちも正しいというわけです。

本当にそうなのでしょうか。

経営の意思決定は答えがない、常に白黒はっきりしないグレー案件がほとんどであることは事実です。

しかし、最終的にはどっちも正しいでは困るわけです。経営は現実であり机上で問題を解くのとはわけが違います。必ず何らかの解に辿りつかないといけない。

そして、利害関係者が複数いる以上、それぞれの目的が異なるのは明白であり、いくら論理的に思考しても解は辿りつきません。ではどうすればいいか。

全く別の道から解へと辿る必要がある。

それは、直感と感性による意思決定です。

私がこれまでみてきた素晴らしい経営者は、論理的思考を駆使しながらも、実際のところ直感と感性により最終的な意思決定をしているという真実があります。

ゼロからイチを生み出す源泉はパッション(情熱)以外の何物でもなく、総じて創業者は論理よりも直観や感性など目に見えないものを最終的な判断の拠り所としているように思います。

そして、往々にして論理的に下した決断よりも、直観的に下した決断の方が、結果として正しかった、ということが圧倒的に多いのです。

決して論理的思考を無視しているわけではありません。論理を積み上げながらも、その一方で、全く別のルートから、直感と感性を研ぎ澄ましている。

それは、結論という一つの山を、表ルートと裏ルールの両方から登っているような印象です。

特に経営者でも創業者が極めてその傾向が強い。

ある種の研ぎ澄まされた野生の勘を持っている、動物的な本能と呼ばれるものでしょうか。

その感性の鋭さは、組織の方向性を決める羅針盤であり、経営における最大のリソース(資源)であると言っても過言ではありません。

そして、それが私がこれまで多くの組織を観たきた中で、創業者とその他で圧倒的に異なると感じる部分でもあります。

ある意味それは仕方のない話かもしれません。

現代の経営はフレデリック・テイラーによる科学的管理法がベースにあり、その中では、目に見えて測定可能であるKPI(重要経営指標)、経営成果を生み出すために必要となる効率的な業務プロセスや組織管理が重視されます。

よってそのような経営システムの中では感情的であることよりも論理的であることが求められるのは必然であり、そのように育成されるような仕組みが強固に出来上がっています。それが最も効率的に成果を上げる方法だからです。

これはある意味人間を歯車として見立てた機械的組織論です。よって、直観や感性など目に見えいないものは最も優先度が低くなります。

しかし、唯一その枠組みから外れている人物がいます。

それが創業者です。

ピラミッドの頂点に君臨する創業者は唯一、そのシステムを統治する側でありその影響を受けない存在でもあります。

逆に組織システムの中で動かざるをえないその他は、どうしても論理的であることが求められるため、本当は誰もが持っている感性が失われてしまいやすい環境下にあります。

更には、創業者にはそれが優先できる条件が整っています。

直観や感性の意思決定は説明ができません。

なぜなら、「なんとくこっちがよさそう」という理由は本人の感覚に基づくものであり、他者を納得させる根拠には到底なりえないからです。

しかし、本人は確信しています。

仮に理由を述べてはそれは結論ありきの後付けでしかありません。

これは創業者のなせる業です。

なぜなら、「なんとなくこっちがよさそう」という曖昧な理由で従業員を納得させられるのは、創業者のカリスマ性と絶対的権力によるところが大きいからです。

ビジネス書でベストセラーになった「世界のエリートはなぜ″美意識″を鍛えるのか」著書の山口周氏は、非常に明快かつ論理的に、経営における「アート」と「サイエンス」の重要性について説いています。

物事が複雑に絡み合い、しかも予測できないという状況の中で、大きな意思決定を下さなければならない場面では、論理と理性に頼って意思決定をしようとすれば、どうしても「いまは決められない」という袋小路に入り込むことになる。

このような問題の処理については、どこかで論理と理性による検討を振り切り、直観と感性、つまり意思決定者の「真・善・美」の感覚に基づく意思決定が必要になる。

つまり、論理的にシロクロのはっきりつかない問題について答えを出さなければならないとき、最終的に頼れるのは個人の「美意識」しかない、という話です。

また、著書の中で論理の極みとも言える将棋界の巨匠である羽生善治氏のコメントも紹介しています。

「美しい手を指す、美しさを目指すことが、結果として正しい手を指すことにつながると思う。正しい手を指すためにどうするかではなく、美しい手を指すことを目指せば、正し手になるだろうと考えています。このアプローチの方が早いような気がします(羽生善治 捨てる力)」

つまり、外側の判断基準に照らし合わせ答えが出ない問題は、最終的には、自らの内側の判断基準に照らし合わせて判断するしかない。

特に複雑性と不確実性の高い現代においては、外部のモノサシよりも、より主観的な内部のモノサシ、つまり自身の美意識に基づき意思決定することが重要である、という主張です。

理性の奥ある感性を取り戻す

では、感性とか美意識とか野生の勘と呼ばれるものは創業者しか持ちえないものなのか。

私は決してそうではない、これは人間が普遍的に持っている機能であり、強固な経営システムの中でも保持しえるものではないか、という結論に至っています。

これは、自身の体験によるものが大きいと言えます。

少し個人的な話をすれば、これはおよそ10年前、前職の課長時代まで遡ります。

コンサルティングという仕事は極めて論理的かつ理性的な営みであり、当時、そこに感性とか直観が入り込む余地は全くありませんでした。更にはそこにマネジメント責任が乗ると、いよいよ左脳的要素が自分の大部分を占めるようになりました。

しかし、あるとき、論理と理性による生き方が限界値を越え、自分の奥底に閉まっていた情動が溢れ出てしまい、それまで封印していたい感性が開いていく感覚が持ちました。

それは、本来あったものを取り戻した、という感覚です。

特に顕著だったのは、肌感覚と嗅覚です。

感性が開かれると、今まで感じられなかったものが感じられるようになっていきます。

様々なクライアントを訪問しても、なんとくなく感じるその職場の雰囲気、流れている空気というものに敏感に感じるようになりました。

その人が発している言葉そのもの(コンテンツ)よりも、その言葉の背景や裏にある想い(コンテクスト)を感じるようになりました。

そして、目に見えるものよりも目に見えないものの方がどうやら真実っぽいぞ、ということに気づき始めました。

それは、今まで見ていた世界は何だったのか、と思うほど、世界が全く違うように見え始める、という感覚です。

それと同時に、自分の中にある情熱の渦みたいものを感じるようになりました。本当はこうしたい、本当はこう言いたい、ポジションが高まるにつれて、いつの間にか強固な組織システムの歯車になりかけており、ある種の先が見えない諦めを感じていた中、かすかな希望の光を見出せるようになりました。

今思えば、論理や理性といった左脳的世界が絶対善という呪縛から解かれた瞬間だったのだと思います。

純粋性とは、山口氏が言う美意識そのものです。

「人間にとって何が自然なことなのか」「自分は世界がどうあってほしいと願っているのか」「直感的によさそうと思うのはどっちか」という極めて主観的なモノサシのことを言います。

ミドルまで上がった人間は、必ず論理的思考力が備わっています。それがなければ既存の経営システムからは必ず途中で弾かれていますから。

しかし、その一方で、論理だけでは太刀打ちできない現代の経営環境の中おいて、感性や直観、美意識が求められるとしたら、それを取り戻し、理性と感性の両方を武器に勝負できるのは、組織に染まりきっておらず、どこか違和感を持ちながら、自分を諦めきれなずに七転八倒するミドルだと思うのです。

課長に熱量がある組織は生きている。

課長が冷めている組織は死んでいる。

これは、私がコンサルタントという立場から、組織が変われるだけの潜在能力があるかどうかを判断する一つのモノサシです。

日本型経営の最大の特徴の一つは、今も昔も、ミドルの存在感の強さにあります。

だからこそ、ミドルの青臭さは、答えのない経営の意思決定のクオリティを高める上で極めて重要な役割を果たすと思うのです。

私が半沢直樹に感じる最大の強さは、世論等の外部のモノサシを重視し、債権放棄に傾く役員会議の場において、「借りたカネは返してもらう、子どもでも解ることです」と言い切ってしまう極めてシンプルな主観的なモノサシの強固さにあります。

極端に言えばミドルの大きな役割の一つは、突き上げです。

俺はこれをやる、そしてお前はどうなんだ、

というある意味上司を全否定し、刺し違えるぐらいの覚悟と迫力がなければ、組織なんてそう簡単に変わりません。

根回しも交渉も必要かもしれません、ただ最終的に問われるのはミドルの本気度です。

ドラマでも、最終的に銀行として債権放棄するか否かの結をとるのは、トップである頭取の立場です。もちろん、それがトップの責任だと思います。

でも、ミドルの視点から言えば、あとは決めてくださいと丸投げし、その決断をトップの委ねてはいけないのだと思います。

まずは全ての選択肢、全ての利害関係者を並べ、それぞれのメリット、デメリットを挙げてみる。

もちろんそこに自分も含める。そうすることで自分のよこしまな気持ちも透けて見えてくる。

そして、今も大事だが組織の未来にとって何がベストかをイメージしてみる。

そもそも自分たちの存在意義、誰のために何のための仕事かを問うてみる。

最後は、世間の常識、組織の常識、更には自分のこれまでの常識からも離れ、感性を研ぎ澄ませ、芯の奥にある真善美の声に耳を傾ける。

そして、決断する。

確かに最終的な決定権ないかもしれない。

それでも、自分はこう、という確固たる決断をもって臨む。

自分の意見が通る場合もあるし、通らないこともある。

それでも、その決断を通すために自分ができるベストを尽くす。

半沢が帝国航空のメインバンクである開発投資銀行が債権放棄に反対した場合は東京中央銀行もそれに準ずるという条件をつけ、頭取の債権放棄を受け入れる決断を飲んだのは、最後の最後の粘りです。おそらく、その選択肢も予め持って役員会議に臨んでいたのだと思います。開発投資銀行の谷川を説得する、という自分にできる最後の一歩を残して。

個の強さが全体を引き上げる

私は、昔から松井よりもイチローの方が圧倒的に好きなのですが、今となっては評価されるイチローも、昔は個人プレーに走りすぎ、チームよりも自分を優先するのはけしからん、と長年叩かれてきました。

イチローは、トヨタ自動車社長の豊田章男さんとの対談でこのように語っています。

「特に、今の時代、わかりやすく言うと俺は自分のためにやってるんだ、というと、それはチームの和を乱しているとなりがちなんですけど、でも実はそういう奴が集まって、目指しているところが1点同じであれば、何も問題もない、というかそれが一番強いと思うんですよね。

目指しているとこが違うと、ややこしくなりますけど、最終到達地点が同じなら、それでいいと思うんですね。

特にプロ野球なんて、そこら中の一番上手いやつが集まってるんだから、エゴの固まりなんですよ。それがチームのために、チームのために、って言ってるのが気持ち悪くて、だから自分のために俺はやる、でも目指すところはみんなと一緒なんだ、っていうチームが中々ないんですよね、それこそ怖いんですよね、それを表現することが、みんなのためにってやってるのが安全ってていうのか、全然違う気がして」

日本型経営の最大の強みは、「突出した個の力」ではなく「集団としての協調性の高さ」であることは、今も昔も変わりません。

特に西欧はまず自己がありそこに「場」が付随するという考え方であるのに対して、日本人は「場」の中に自己を見出す、つまり個人と場所の結びつきが非常に強いからこそ場を守ることが自己を守ることに直結しやすい、個より集団が優先される所以です。

しかし、それが負の側面として出たとき、本当に必要な事柄に踏み込まない事なかれ主義、過剰な忖度による誤った意思決定、過去決めたことを遂行することが目的化した前例世襲主義を生んでしまいます。

現状維持なら強い個など必要ないかもしれません。

しかし、組織が一段階ステージを上げようとするとき、必ず強い個が必要になります。

特に大きな変革を伴うとき、組織を前に突き動かすのは個の突破力です。

ある一人の個の熱が全体に飛び火する。

種火となるのはいつも個の想いからです。

自分が火だるまになれるか、

そこがミドルに問われている。

そんな火が自分にあるのか、という疑いもある。

必ずある、誰にも等しく必ず。

それが人間です。

それは、自分の心の奥の奥にある熱源を探索していくような作業、

時間がかかるかもしれない。

間違うこともたくさんある。

右にいっては壁にぶつかり、

左にいっては分かれ道、

迷路ように感じるときもある。

でも、自分が諦めなかったら、

その小さな灯は必ず見つかるはず。

そう信じています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

著者プロフィール 渥美崇史

  • 1980年静岡県浜松市生まれ。株式会社ピュアテラックス 代表取締役。
  • 2003年、大学卒業後、ヘルスケアに特化した経営コンサルティンググループに入社し、評価制度や報酬制度の設計などの人事コンサルティングに従事する。その後、戦略や仕組みだけでは経営が改善されない現実を目の当たりにし、それらを動かすマネジメント層の教育に軸足を移す。2009年、マネジメントスクールの新規事業を立ち上げ、事業責任者を務める。約30,000人以上のマネジャーの成長を支援する事業に育てる。
  • その後、自社の運営にもマネジャーとして携わる中、トップの世代交代による経営危機に直面する。業績低迷、社員の大量離職が続く中、学習する組織、U理論といった組織論・変容理論に出会い、自身の人生観が180度変わるほどのインパクトを受ける。その知見を社内に持ち帰り、約2年間をかけて新しい組織文化への変革に取り組み、 当時の過去最高利益を達成する。その実体験と理論をベースにクライアントの組織変革を始める。
  • 2016年、13年間勤めた会社を退職し、独立する。社名の由来である”命の輝きを照らす”をミッションに、人間主体の組織マネジメントへの変革と自己のオリジナリティを生かしたリーダーシップ開発に力を入れている。
  • 好きな書籍は岡本太郎の「自分の中に毒を持て」。自由・冒険・探求がキーワード。犬並みに嗅覚が鋭い。この世で一番嫌いなものはオバケ(極度の怖がりのため)。射手座AB型二人兄弟の次男。
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