人や組織にとって「怒り」はなぜ必要なのか

2022.02.28

コラム

生きる

By

「怒り」のない人は存在しない

突然ですが、子供同士が喧嘩しているのを目にしたらどうしますか?

A)どうしたの?と双方に聞く

B)自分の子供を注意する

C)放っておく

人間の成長・発達という観点から見れば、Cの放っておく、というのが正解になります。

手出しせず、口出しせず、ただただ見守るという表現の方が適切かもしれませんね。

もちろんシーンや喧嘩の程度にもよりますが。

ただ、実際にこの問いに対する回答で多いのは、Aの双方に理由を聞く、もしくは、Bの自分の子供を注意する、であり、Cの放っておく、という回答は圧倒的に少なくなります。(おそらく、昔は子供の喧嘩に大人がそこまで干渉することななかったように思います)

なぜでしょうか。

私たちが生きる現代の社会においては、一般的に「喧嘩は良くないこと」という前提(社会的な常識)があるように思います。

そのため、喧嘩をしている子供を見かけたら、瞬間的に止めようとする、なんとかしないといけない、と反応します。

子供同士の喧嘩でなくても、職場でスタッフ同士が言い争いをしていたら、当たり前のように止めようとしますよね。

では、なぜ喧嘩は良くないと思っているのでしょうか。

そこには「怒り」という感情に対する私たちの認識が大きく影響しているように思います。

喜怒哀楽と言いますが、一般的に喜びや楽しみはポジティブな感情として扱われ、怒りや悲しみはネガティブな感情として扱われます。

その中でも、特に「怒り」という感情はそのパワーの強さから、最も好ましくないものとして扱われているように思います。

しかし、「怒り」のない人は存在しません。

そのため、「怒り」の処理の仕方としては、多くの場合、「我慢する」「抑制する」という方向に向きます。

しかし、これは絶対的に上手くいきません。

「感情は居場所を求める」という性質があります。

本来、感情は感じた瞬間に消えていきますが、我慢した未完了の感情は消えることなく体内に蓄積されていくため、例えその瞬間「怒り」を我慢して抑制したとしても、イライラは止まらず、何かをきっかけに爆発します。これが、特に自分より立場の弱い相手の前で出やすくなります。

多くの場合、ちゃんと怒りきったら、その瞬間怒りは消えていきます。(それでも消えない怒りもありますが、今回は割愛します)

それが本来の感情との付き合い方です。

なので、相手が誰であろうと、怒るときは同じように怒る、という習慣が地味に大事だと思います。

現代社会において、それはとても難しいことではありますが、怒りを相手にぶつける、ということではなく、自分の内側に湧く「怒り」をただただ放っておく、その感覚が大切になります。

それでも残る場合、お勧めとしては、車の中やシャワーを浴びながら絶叫する、もしくは日記を書くのもいいかもしれません。

では、こんな扱いが厄介な「怒り」は、何のために存在するのでしょうか。

「怒り」が果たす3つの役割

人間にとって「怒り」には大きく3つの役割があります。

一つ目は、命を守る、自己防衛としての役割です。

例えば、足踏まれたら瞬間的に怒りませんか?ほぼ無意識に。

これは自分の命を守るための生存本能としての怒りです。

人は自分の生存を脅かされると怒りが起こります。

極端かもしれませんが、怒りが起こらなければ、人は無抵抗で殺されてしまいます。

生きようとする力があるからこそ、私たちは怒ります。

「怒り」は生命を脅かされた時に湧き起こる感情です。

二つ目は、行動を起こすエネルギー、としての役割です。

怒りが強い人は、生命エネルギーが強く、人の心を動かす力があります。

影響力がある、リーダーシップがある、と言い換えてもいいかもしれません。

元XのYOSHIKIさんは、父親の原因不明の自殺を幼い頃に目の当たりにし、

どうしようもない怒りが沸き起こった、その怒りを音楽にぶつけてきた、と言っています。

「怒り」とは「情熱」であり、「情熱」とは「行動を起こすエネルギー」です。

逆に自分の中から「怒り」を無くすということは、「情熱」を無くすということであり、

「情熱」を無くすということは、「行動を起こすエネルギー」を無くす、ということです。

それは、死んだように生きることと同じですよね。

私たちの強い行動の裏側には、強烈な怒りがあります。

いつの時代も破壊と創造は「怒り」によって起こります。

三つ目は、使命感への気づき、としての役割です。

私たちは、直接自分とは関係のないことでも、自分が特に大切にしている何かが蔑ろにされたり、奪われたと感じたとき、強烈な怒りが沸き起こります。

例えば、皆さんはニュースを目にして怒りが湧くことはないでしょうか。感情が震えることはないでしょうか。

私は、人権侵害とか男尊女卑とか虐待とか社会的いじめとか、強い力を持つものが力が弱いものを排除したり、一方的に攻撃するような出来事に怒りが沸き起こります。

そこに「怒り」があるということは、そこに「満たしたい強いニーズ」があることを意味します。

本来あるはずのものがない、そこに私たちは怒りを覚えます。

じぶんの内側にあって、社会にないものがある。

世の中への悲観や怒りが「願い」へと変換された時、それは理念となり、使命感となります。

特に経営者の方々と接していると、純粋な社会への疑問、憤り、怒りが根底にあることをよく感じます。

そのように捉えると、「怒り」は自分が何を大切にしたいのか、どんな願いを持っているのか、を教えてくれるサインとして常に自分に気づきを与えてくれます。

ちなみに、「愛情の反対は憎しみではなく、無関心だ」とはマザー・テレサが言った言葉ですが、「怒り」が起こるということは、その対象に「愛」がある証拠だと思います。

もし子供が間違った方向に進もうとしたら、親は全身全霊で怒りますよね。

それでも、近年、子供を叱れない親が増えている、部下を叱れない上司が増えている、と言われています。

それは、自分の中にある「怒り」をどう扱っているか、という問題でもあります。

「怒る」と「叱る」は違うと言われますが、「叱る」行為の中には「怒り」の感情が必要不可欠です。

「怒り」のない「叱り」は無味乾燥で嘘臭いなと、個人的に思ってしまいます。

「怒り」があるから「叱り」が生まれるのだと思います。

「感情」が先で「行為」が後です。

であれば、「怒り」は隠さず素直に「叱り」に乗せて表現すればいいと思います。

そっちの方がよっぽど伝わると思います。

もし叱れないのだとしたら、「怒り」を好ましくないものとして扱っているか、もしくはシンプルにただ嫌われたくないだけなのかもしれません。

自己防衛のために「怒り」を相手にぶつけるのではなく、「怒り」を無かったかのように抑え込むのでもなく、「怒り」の奥にある「願い」に気づき、愛を持って相手に関わっていく、社会に表現していく、それが本来のあるべき「怒り」の扱い方ではないかと思います。

だから、「怒り」を否定する自分がいるとしたら、まずは自分の中にある「怒り」を肯定してあげてほしいと思います。

そして、「怒り」を表現する自分を許してあげてほしいと思います。

それは、自分を救済する行為でもあります。

「人」も「組織」も反抗期を経て大人になる

話は変わりますが、人間の精神的発達において、反抗期は極めて重要なプロセスだと言われています。

反抗期を通して、私たちは自分の内面で湧き起こる、強烈な「怒り」と向き合います。

人生最初の反抗期は子供の頃のイヤイヤ期です。

親に反抗し、それを受け入れてもらうことによって、「自己主張ができる」という人間としての土台を確立します。

親からしたらいちいち反抗する子供は面倒臭いかもしれませんが、「自分の意思を主張できる」「主張してもいいんだ」という自己信頼は、これからの社会と関係していく上で極めて重要な土台となります。

そして、次の反抗期が思春期です。

「アイデンティティ」という概念の考案者でもあるアメリカの発達心理学者であるエリクソンは、思春期が最も変化の激しい時期、古いシステムから新しいシステムに移る移行期と言っています。

このタイミングは、親の生き方に反抗し、自分の生き方を確立する段階、つまり、親子の精神的な上下関係から抜け出して、心も親と対等になる、という発達課題に直面することになります。

別名「親殺し」とも言われますが、

自分の中に存在する親を否定し、精神的なつながりを断ち切ることで、

「自分は親とは違う」「自分は親のようにはならない」そうやって自我を確立していきます。

「自分とは何か」「自分は一体何のために生まれてきたのか」そういった答えのない問いに悩み苦しみ、

親に答えを求めるのではなく、自分なりに答えを探す旅に出ます。

親に反抗することで親に反論され、お互いに怒りをぶつけ合うことで、

一人の大人としての対等な関係を築こうとしていきます。

これが、自立していく、ということですね。

この段階は、親にとっても子にとっても壮絶な苦しみがありますが、親殺しに成功することで、親は子離れし、子は親離れをしていきます。

そのように考えると、親と本気で喧嘩することも、先生に盾突くことも、友達と大喧嘩することも

自分は他者とは違う、という自己主張をすることで、自分が自分であることを確立していく、

反抗期は、人間が健全な成長を遂げていく上で通過しなければならない、最も重要なプロセスと言えます。

逆に、反抗期がないまま大人になると、何かの出来事をきっかけに心の病に発展したり、未完了の宿題のように後になって親子関係の問題が浮上することも少なくありません。

そして、人間の発達と組織の発達は比例します。

もちろんそうですよね、人の集合体が組織ですから。

となると、

組織においても、組織が健全に成長していくと、必ず反抗期というプロセスにぶつかります。

最初は親子のような主従関係から組織が始まります。

特に創業者は従業員を自分の家族のように扱います。実際に親子ぐらい年齢が離れていることも多く、創業者の強いカリスマ性とそれを信じてついていく従業員という主従関係です。

しかし、だんだんと管理者やリーダーの実力がついてくると組織の中でも反抗期が起こります。これは、「今まで信じてきたトップもいつも正解ではない」「もっとこうした方がいいのでは」そうやって、これまで育ててもらった親への反抗心のようなものが芽生えます。

このフェーズは、組織が健全な発達を遂げていくうえでとても重要なプロセスです。

親子関係と同じように、上司と部下という立場はありながらも、精神的な上下関係から抜け出し、大人としての対等な関係を築いていく、組織として一皮向けていくタイミングといえます。

反抗してくる管理者・リーダーに対して、もちろんトップも黙っていません。これまでの経験と実績に裏打ちされた強烈なパワーと説得力と捩じ伏せます。

そこで、反抗心を抑えてしまうと自分の成長も組織の成長もストップしてしいます。

1を言って、10返されようとも、めげることなくまた玉を投げ返していく、そういった玉の投げ合いのプロセスを通して、だんだんと、主従関係から対等な大人としての関係性が築かれてきます。

ただ、親子ほど簡単ではないとは思います。

それは、親に反抗できるのは、反抗しても親は自分を見捨てることはない、という根底に絶対的に信頼感があるからであり、組織という関係性においては経営者と従業員は赤の他人であるため、現実として首を切られるリスクがあります。

経営者の視点で言えば、そういった従業員の反抗心を受け止める度量が必要であることは言うまでもなく、

従業員の視点で言えば、そういったリスクを抱えた中でも自己主張をしていく覚悟が問われます。

もちろんそこには、耳を傾けてもらえるだけの基本的信頼関係を日頃から貯金しておく必要があり、それは、現実的に経営者にとって自分は必要な存在か、手放すと困る存在かどうか、というこれまでの組織への貢献、実績も大きく関わってきます。

いずれにしても、組織の中でもきちんと反抗期を通過し、組織と調和しながらも集団の中で一人ひとりが自己のアイデンティティを確立していくことが、組織の健全な発達においては重要なテーマとなります。

更には、コロナに戦争にと、不確実性が益々高くなる環境下において、一人ひとりが自らの頭で考え、判断し、責任能力を高めていく、そのような自立した組織へと成長を遂げていくことが、組織の生存能力を高めていくためにも、今まさに求められているのではないかと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

著者プロフィール 渥美崇史

  • 1980年静岡県浜松市生まれ。
  • 2003年、大学卒業後、ヘルスケアに特化した経営コンサルティンググループに入社し、評価制度や報酬制度の設計などの人事コンサルティングに従事する。その後、戦略や仕組みだけでは経営が改善されない現実を目の当たりにし、それらを動かすマネジメント層の教育に軸足を移す。2009年、マネジメントスクールの新規事業を立ち上げ、事業責任者を務める。約30,000人以上のマネジャーの成長を支援する事業に育てる。
  • その後、自社の運営にもマネジャーとして携わる中、トップの世代交代による経営危機に直面する。業績低迷、社員の大量離職が続く中、学習する組織、U理論といった組織論・変容理論に出会い、自身の人生観が180度変わるほどのインパクトを受ける。その知見を社内に持ち帰り、約2年間をかけて新しい組織文化への変革に取り組み、 当時の過去最高利益を達成する。その実体験と理論をベースにクライアントの組織変革を始める。
  • 2016年、13年間勤めた会社を退職し、独立する。社名の由来である”命の輝きを照らす”をミッションに、人間主体の組織マネジメントへの変革と自己のオリジナリティを生かしたリーダーシップ開発に力を入れている。
  • 好きな書籍は「自分の中に毒を持て」「星の王子さま」。自由・冒険・探求がキーワード。犬並みに嗅覚が鋭い。この世で一番嫌いなものはオバケ(極度の怖がりのため)。射手座AB型二人兄弟の次男。
お問い合わせはこちら

関連記事

最新記事一覧