漫画「鬼滅の刃」を読んで、人の心について思うこと

2020.07.17

コラム

生きる

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経営と人の心

前職の創業者の教えに”経営の改善は人の改善、人の改善は人の心の改善”というものがあり、この教えは今の自分の中にも強く残っています。

様々なクライアントの経営の支援をさせて頂いていると、どんな施策や方法論を講じようとも、それを担うのは結局は人であり、その人の心の在りようによって、経営は良くも悪くもなる、そう思う場面が多々あります。

業績が悪い職場で働く人々の心はどこか荒れており、業績が良い職場で働く人々の心は穏やかです。ただ、仮に今業績が良くなくてもそこで働く人々の心が希望に満ちていれば、多少のタイムラグはあってもその組織の経営は改善していきますし、反対に、仮に今業績が良くても、働く人々の心が疲弊しているのであれば、それはギリギリの状態であり、何かをきっかけに事態は大きく悪化します。

20代の中盤、賃金カットによるリストラクチャリング(事業再構築)のコンサルティングを多く手掛けていた時期がありました。いわゆる人件費の高騰により事業が立ち行かない状態の中、人件費削減による事業再建案を提案し、その同意を得るために、労働組合や従業員の方々に説明をする、といった業務です。人の夢を応援することがこの仕事の喜びですが、事業存続のためと言えども大きな痛みを伴う改革というのは、多くの人の負の感情と正面から対峙しないといけない場面が多く、20代というまだまだ若い当時の私にとっては、ある意味完全に心を閉じて理性のみでその場に臨まなければ、到底こなせる仕事ではありませんでした。

経営状態が悪い職場は、独特の雰囲気、人の表情、発言というものがあります。全員というわけではないのですが、そこで働くスタッフは何処か殺伐とした雰囲気を放っており、誰かを責める発言や否定的な発言が多くを占めます。従業員への説明会を実施した際は、その再建案を説明する私に向かって、様々な怒号や罵声が飛び、盾となるのが自分の役割だと分かってはいても、正直生きた心地がしませんでした。それと同時に、経営というものは、こうまでも人の心を変えてしまうものなのか、人は環境によって創られる、極端に言えば、良かった人も悪い環境に行けば腐り、悪かった人も良い環境に行けば輝く、それぐらい経営という器が人の心に与える影響は大きいものだと痛感しました。

私たち業界のよくある話としては、赤字の職場は汚い、散らかっている。だから、赤字の職場を改善するためには、まず掃除から始める。それが全てだとは思いませんが、仮に人の心の在りようが形となって場に顕れるのであれば、まずは場を綺麗にし、整えることで、心が整っていく、というのも、因果のある話なのかもしれません。

いずれにしても、組織とは人の集合体であり、突き詰めるところ、その組織のトップリーダー、マネジャーといった、立場上、人の上に立つ存在の心の在りようが経営の結果に大きく影響していることは、紛れもない事実であると思います。

そして、言わずもかな医療福祉は労働集約型の産業であり、人そのものがサービスであるため、人の変化が経営成果に直結しやすい側面があり、”経営の改善は人の改善、人の改善は人の心の改善”という考えが、よりダイレクトに響きます。

鬼の心、仏の心

では、人の心とは一体何なのでしょうか。人の心の改善とは、一体何がどうなることなのでしょうか。

先日、今話題になっている漫画「鬼滅の刃」を今売られている全21巻まで購入し、一気に読み終えました。最終話までは、単行本ではまだ到達していないようですが。。

爆発的に売れる漫画というものは、その時代を生きる人々の意識をよく表しています。ある意味自分たちが見たいものを投影していることが多く、今を生きる私たちがどういったところに心が向いているのかを教えてくれるような気がします。

読んだことのない方のために簡単に説明すると、妹を除く家族全員を殺され、唯一生き残った妹を鬼にされた主人公(炭治郎)が、妹を人間に戻すために、鬼殺隊という鬼殺しのプロが集まる組織に入隊し、主人公の成長の共により強い鬼を倒し、妹を鬼にしたラスボス(無惨)に迫っていく、というストーリーです。

鬼殺隊には柱(いわゆる幹部)と呼ばれる9名の精鋭がいます。圧倒的な強さを誇りますが、誰もが鬼殺隊となった理由は自分の家族や大切な人を鬼に喰い殺されたからです。その強烈な怒りが、圧倒的な強さになるまでに練り上げられた剣技の原動力になっており、当然、どんな鬼でも人を喰う鬼である以上絶対に許さない、その正義感の裏には未だに消化できない悲しみや葛藤を抱えています。そして、それぞれが鬼との戦いを通じて、封じ込めていた過去の記憶と向き合うことで、その傷が癒され、精神的に一皮も二皮も剥けて、より強い柱へと成長していきます。

ここまで聞くと、鬼は悪であり、鬼殺隊は正義のように見えますが、普通のストーリーと違うのは、悪者とされる鬼にも、鬼となった苦しみや悲しみ、その苦悩や葛藤までもが描写されていることです。また鬼も鬼殺隊との戦いを通じて、過去の記憶と対峙し、自分が本当は何を守りたかったのか、誰に何を伝えたかったのかに気づき、その奥底にある思いに触れることで、鬼は仏の顔に戻り、成仏していきます。

鬼と仏、これは私たち人間の心そのものではないかと思います。

仏だけの人など存在しません。人は美しくもあれば醜くもある、人は人を守ることもあれば、簡単に人を裏切ることもある。人のために命を尽くす一方、自己の利益のために欲深くもある、常に心は鬼と仏の狭間を揺れ動き、悩み苦しむ、それが人間だと思うのです。だから、どれだけ仏のように見える人であっても必ずその心の奥には鬼が住んでいる、いつも聖人君主の人など存在しない、少なくとも私はそう思います。

逆を言えば、鬼だけの人も存在しません。どれだけ鬼のように見える人であっても必ずその心の奥には仏が住んでいる、強い鬼であればあるほどその悲しみは深く、誰よりも深い優しさを持っている、そう思います。

これは、個人的な考えではあるのですが、どこか今の世の中は、人は仏のようにあることが善とされる、非常に生きにくい世の中であるように思います。しかし、人間には鬼も仏もいることを前提とすれば、いつも人前に出すのは仏の自分でなくてはならず、確かに存在する鬼の自分はどこに行けばよいのでしょうか。

隠された鬼は必ず居場所を求めます。しかし、仏を全面に出し、鬼の自分を抑え込めば抑え込むほど、秘めた鬼は暴れ出します。社会的には仏であっても、家に帰れば鬼の自分が顔を出す、鬼の自分を隠そうとすればするほど鬼の爆発は凄まじく、場合によってはあってはならない事件が起こしてしまいます。そして、そのような事件を起こした本人は、間違いなく世間から徹底的に糾弾される、まさに鬼狩りです。

確かに、そのような事件はあってはならないし、許されることではないかもしれない。仮に自分の大切な人を鬼に殺されたら、その鬼を許せるだろうか、きっと許せるはずがない。そうは思いながらも単純に善と悪では割り切れない自分もいます。ただ一つ思うことは、きっと、残された自分が復讐の鬼となることは決して望まないのではないか、ということです。

漫画の中では、鬼が鬼となった背景、鬼が鬼であることの理由が描かれています。自分の最愛の人を守れず、後悔の反動から戦闘狂となり、終わりなき戦いを続ける鬼、双子の弟の特別な才能に強烈に嫉妬し、弟を超えるために鬼となり、醜い姿となりながらも勝ち続けために戦う鬼、鬼となった自分を殺そうとする親を殺し、本物の絆を求めながらも、恐怖による支配で絆をつくり、偽りの家族ごっこを続ける鬼、等々。

その思いは必ずしも悪とは言い切れず、そのときはそうするしか選択肢がなかった、それしか傷ついた心を守る術がなかった、鬼殺隊の柱がその怒りと悲しみを原動力に強くなるの同じく、また鬼も強い怒りと悲しみが原動力で強くなる、たまたま進んだ道が違っただけではないのか。鬼は最初から鬼であったのでない、まだまだ善悪の判断もなく、あまりにも無知で、そして傷つきやすく、幼すぎる子供の心は、その大きな悲しみを受け止めることができず、その心の痛みに耐えることができず、鬼の誘惑に飲み込まれてしまっただけではないか。

鬼殺隊となった人も、鬼となった人も、もともとは同じ人であり、たまたまその時に近くに誰がいたか、どのような言葉をかけられたかによって、鬼となるか仏となるかが違っただけであり、もしかすると一歩間違えれば自分も鬼になる可能性は十分にあった、人はそんなに強い生き物ではない、鬼となるか仏となるかはいつも紙一重、そう思うと単純に鬼を悪として罰することに大きな違和感を感じずにはいられません。

主人公である炭治郎は、今しがた自分の家族を殺した鬼にも情けをかける、あまりにも優しすぎる性格のため、この子はダメだ、鬼殺隊にはなれないと当初は言われます。それでも、妹を人間に戻すため諦めずに努力し、入隊試験に合格し、そこから数々の鬼を倒し、強くなりながらも決してその優しさを失うことなく、死んでいく鬼の心に寄り添っていきます。

あるシーンで、「人を喰った鬼に情けをかけるな」と倒した鬼の背中を踏みつけ、そう諭す自分よりも圧倒的に強い柱に対して、炭治郎は「これ以上被害者を出さないため、勿論俺は容赦なく鬼の頸に刃を振るいます。だけど鬼であることに苦しみ、自らの行いを悔いている者を踏みつけはしない、鬼は醜い化け物じゃない、鬼は自分と同じ人間だったから」と断固拒否する姿は、今も心に強く残っています。

人間を喰い殺す鬼は確かに鬼そのものですが、その鬼の首を容赦なく撥ねる鬼殺隊も、また見方を変えればその心は鬼そのものなのかもしれません。完全な悪も完全な善も存在しない、鬼も仏も私たちの中に生きている。私は、この炭治郎の鬼に向けられる厳しさと優しさは、単純な善悪では割り切れない、今の社会を生きる第三の道が描かれているのではないかと思います。

鬼の自分を抱きしめて

この文章を書いてる最中、たまたまアンパンマンをつくった、やなせたかしさんの著書の「わたしが正義について語るなら」という本が、目に飛び込んできました。いつ買ったのか忘れましたが、読んだ記憶がなかったので数ページ読んでみると、こんな内容が書いてありました。

『ロールパンナについて メロンパンナの、おねえちゃんがほしいという願いにこたえて、ジャムおじさんはロールパンナをつくります。

しかし、ばいきんまんがこっそりばいきんジュースをまぜたため、ロールパンナは良い心と悪い心のふたつのハートをもって生まれてきてしまいます。悪い心の時は、青いハートが輝いて、ばいきんまんの味方になり、メロンパンナの声を聞いて赤いハートが輝くと、良い心なるのです。

ぼくらはみんな、ロールパンナと同じように良い心と悪い心をもっています。いつも良い心が勝てばいいのですが、うっかりすると負けそうになります。さて、ロールパンナは悪い心に勝つこができるでしょうか。』

悪人といえども、全部まっくろの悪人じゃない。善人にも悪い魂はある、悪い人間にも善良な部分はある、単純に善と悪の対決だけにしたくなかった、というやなせさんの思いから描かれたのが、このロールパンナというキャラクターです。

そして、やなせたかしさん作の絵本「チリンのすず」についてもこう書かれています。

『僕が書いた絵本に「チリンのすず」と言う作品があります。オオカミに両親を殺されたひつじのこども「チリン」が、そのオオカミに弟子入りして強くなり、最後には復讐してオオカミをたおす話です。

チリンのお母さんは、チリンをかばって死にました。オオカミはチリンが住んでいた牧場を襲って親を殺してしまった仇です。

でも、チリンがオオカミに弟子入りしようと「ぼくはこひつじのチリンです。ぼくもあなたのような強いオオカミになりたい。僕はあなたの弟子にしてください」とお願いに行くと、オオカミの心の中がふわーっとあたたかくなるのです。いつも嫌われ者でそんなことを言われるのが初めてだったんですね。

チリンはオオカミの元で毎日強くなるための訓練をします。三年がたつと、チリンはすっかりたくましく育ち、どこから見てもひつじには見えないものすごいけだものになります。

そしてある嵐の日、いよいよ仇をうつためにオオカミを裏切り、するどい角でオオカミを突き刺します。そうするとオオカミは、「ずっと前からいつかこういう時が来ると覚悟していた。お前にやられて良かった。俺は喜んでいる。」と言いながら死んでいく。チリンは三年かけてお母さんの仇をとりました。

ところが夜が明けた次の日の朝、岩山の上で「僕の胸はちっとも晴れない」とうなだれます。オオカミが死んで初めて、オオカミは先生であり父のような存在であったことがチリンにはわかったのです。

ものすごいけだものになったチリンは、もうひつじに戻ることができません。』

鬼だと思っていたオオカミは、いつの間にかチリンにとっての仏になっていた。そして、復讐を果たしたチリンはいつの間にか自分が鬼の姿になっていた、というなんとも切ない話です。

悪にも悪なりの善があり、善にも善なりの悪がある。今の世の中は善か悪かの二文法で語られがちですが、そもそも善も悪も存在しないのではないか、もしかすると私たちは大いなる思い込みの中で生きているのかもしれません。

私たちの心には、人を慈しむ心、人を愛する心、人を敬う心、人を尊ぶ心がある。その一方で、人を憎む心、人を羨む心、人を妬む心、人を恨む心もある。私たちの心には、鬼と仏、その両方が存在する。そのように考えると、人の心の改善とは、決して鬼の自分を滅し、仏の姿を目指すことではない、そう思います。

自分も鬼であることを否定した小さな仏は正義という名のもと鬼を罰します。それは、自分の心にある鬼を罰することと同義です。自分の鬼を罰すれば、その鬼は居場所を求め肥大化し、いつか小さな仏を飲み込み、仏の姿をした鬼となる。鬼は決して悪そのものではなく、ボロボロになりながらもいつも必死に自分の心を守ってくれている。悪者にされながら煙たがられながらもいつも離れず自分の味方でいてくれている。それが鬼なりの優しさだと思うのです。

本当の意味での心の改善とは、自分の中にも鬼がいることを知り、炭治郎のように、歯を食いしばって必死に生きてきた鬼を抱きしめてあげることではないでしょうか。その鬼の裏側にある悲しみに寄り添ってあげることではないでしょうか。そして、鬼が表現したかった本当の願いに耳を傾けてあげることではないでしょうか。そうすることで鬼は鬼としての役割を終え成仏し、結果、仏の顔へと姿を変えていくのではないかと思います。炭治郎の鬼に対する慈しみは、私たちの心の中にある鬼との向き合い方を教えてくれているのかもしれません。

だから、けだものになったチリンも、きっとひつじに戻れる、そう信じています。

とりとめもない話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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